非加熱(生)蜂蜜
オーガニック蜂蜜

три мужика部からシベリアへとやって来ました。チェルニツォフ家の家 長はこの制度を利用し大家族で未知の土地であるシベリアへ 渡り探索を開始したのです。まずは針葉樹林帯に覆われてい る新天地の大木を切り倒し、切り株を取り払い、土地を耕す 事から始めました。初めの年にはチェルニツォフお爺ちゃん は12個の巣箱を森に設置しました。数年後には巣箱を100 個にまで増やしたのです。20世紀の初めにはチェルニツォ フ養蜂場はクラスノヤルスクの薬局へも蜂蜜を薬として供給 し始めました。その後、4代に渡り、チェルニツォフお爺ち ゃんから子供に、子供から孫へ、また孫から曾孫へと養蜂業 が受け継がれました。彼らは自らで収穫した蜂蜜を食し、近 隣住民へ販売し、商店にも並ぶ程になりました。やがて、徐 々に家族全員が養蜂業にたずさわるようになりました。ロシ アの改革は国の内部に沢山の変化を生みました。シベリアも同様に激動時代の到来したの ですが、それにも影響を受けずチェルニツォフの家族は蜂蜜の収穫に精を出しました。戦 時中は蜂蜜の需要もうなぎ上りに増え、チェルニツォフ家の蜂蜜は戦争の最前線や軍の病 Улики院へ送られ怪我をした兵 士達に与えられました。 蜂蜜の収穫量は毎年同じ とは限らないのです。そ の年は他の年とは比べ物 にならない程収穫量が伸 び、容器が間に合わず地 面に穴を掘り、そこに草 を敷いて蜂蜜を入れ保存 したそうです。飢餓の時 期には蜂蜜は「薬」やス ウィーツとして活躍しま した。又、砂糖が不足した時期には蜂蜜が唯一の栄養がギッシリ詰まった糖源でした。チェ ルニツォフの家業である養蜂業はその質の良さのおかげで戦後、シベリアのみならずロシア 全土でも有名になりました。家族の中には養蜂者として飛び抜けて優秀な物もいました。そ の為、チェルニツォフお爺ちゃんの孫の一人は旧ソビエト連邦で最もハイランクの優秀賞を クレムリンでフルチショフから受賞したのです。1965年、彼らは1つの巣箱ごとに400 キロ程の蜂蜜を収穫しました。この記録はいまだかつて塗り替えられていません。過去から Поле現在に渡るまでにチェルニツォフ の家族はモスクワで行われる全農 博覧会で何度もメダルや表彰状を 勝ち取りました。これは今でもチ ェルニツォフお爺ちゃんの熟練さ れた養蜂技術が受け継がれている 為です。現在の家長であるアンド リュー・チェルニツォフは4つの 養蜂場を持ち400を超える巣箱 を運営しています。シベリアでは 大規模の蜂蜜専門店にも出店、又、 モスクワの蜂蜜専門店と提携して いるだけではなくクラスノヤルス ク市の40ものスーパーやデパー トでも取り扱っています。